「くまちゃん」(角田光代)

味わうべきは失恋による主人公の心の変容

「くまちゃん」(角田光代)
(「日本文学100年の名作第10巻」)
 新潮文庫

研修で訪れたベルリンの町の
一角にあるテナントを
覗いた苑子は、
主催者を見て驚く。
三年前に交際していた男の子
「くまちゃん」の敬愛していた
アーティストだったからだ。
苑子は「くまちゃん」のことを
少しだけわかった気がした…。

三年前、花見の席で出会った
「くまちゃん」は、
仕事にも就かず、貧乏で、
苑子の部屋に居着いたと思えば
ふらりと行方知れずとなり、
僅か二ヶ月で別れてしまったのです。
苑子の失恋を描いた物語です。
「何だ、単なる失恋物語か」と
言うなかれ。
味わうべきは失恋の前後の
苑子の心の変容です。

総合芸術家を志している
「くまちゃん」に対して、
苑子はその支えになることを
決意します。
「私は物理的な意味においても
 精神的な意味においても
 それを応援しよう。
 今日の前にある、
 ふつうで平和な日々が、
 その圧倒的なつまらなさで
 私をだめにするならば、
 くまちゃんを応援することで
 それを食い止めよう」

彼女は就職して一年が経ち、
毎日の単調な日々の繰り返しに
心をすり減らしていたのです。
「くまちゃん」は苑子にとっての
光明であるかに見えました。
しかし彼は姿を消します。

それから三年経ち、苑子は
輸入販売の部署に配置換えとなります。
詳しくは記されていませんが、
その時間の中で
苑子は大人になったのでしょう。
ベルリンの町で
「くまちゃん」が憧れていたものの
実体に接し、
三年前とは違った「くまちゃん」の姿が
見えてくるのです。
「あのとき二十五歳だった
 あの男の子は、
 自分の凡庸さを壊すのに
 必死だったんだ」

「くまちゃん」は自分と同じように、
平凡な毎日の中で退屈を感じている
凡庸な自分と戦っていたことに
気付くのです。

そして
「ふつうで平和な毎日が、
 けっして私を
 だめになんかしないと、
 そういう日々の先に
 私にしか手に入れられないものが
 あるらしいと知った今ならば、
 わかるよ、あなたのことが」

大人になるというのは、
決して平凡な毎日に
慣れることではないのです。
変わらない毎日の中にこそ、
自らを磨いてゆける機会が
豊富に存在しているのです。
それに気付くことこそが
「大人になる」ということ
なのではないでしょうか。

失恋小説という娯楽作品の
体裁をとっていながら、
主人公の人間的な変容を
しっかりと編み込んでいる、
純文学のエッセンスの感じられる
作品であり、
これこそが角田光代の真骨頂です。
現代文学の逸品をご賞味あれ。

(2021.4.18)

Jan VašekによるPixabayからの画像

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